国分町の歴史
国分町は
「こっぷんまち」「こっぽんまち」
国分町は戦国時代末期、伊達政宗の仙台開府に伴い陸奥国分寺の門前付近の住民が移転してできた町といわれています。
当時仙台には、早くから木下近辺に国分寺が置かれ、また国分氏がこの地を領有していたので、今の仙台地方一帯を国分荘と呼びました。 開府に伴い政宗は、大町・肴町・南町・立町・柳町・荒町などの御譜代町をそれぞれの地に置いた際、 その頃まで国分氏に従い、木下付近に住んでいた町人などを芭蕉の辻から北へと配置していきました。 それで国分氏に属した人々によって成立した町―「国分町(こくぶんちょう)」と称しました。 当時は国分町を「こっぷんまち」「こっぽんまち」とも呼ばれていたようです。
現在、主に歓楽街部分を指して 、仙台市民からは「分町」(ぶんちょう)とも呼ばれています。
国分町は、豪商の末裔?
江戸時代は、南隣の大町付近が商業中心地であり、そのために旅籠が集まり宿場町的な役割を担っていました。 時代により変わりますが、主な豪商には、呉服問屋、味噌問屋薬種商、物商、本屋など 実力のある商人で栄える町になったようです。
国分町は、昔の豪商の末裔だったのでしょうか。 明治維新後は、軍隊が仙台城に駐留し、国分町は遊郭などの店が多くなり、歓楽街の様相へと変貌していきました。 その後、遊郭は移転し、虎屋横丁と本櫓丁を中心に料亭や芸者置き場などが軒を連ねるようになりました。 第二次世界大戦後には、仙台空襲の戦災から復興した国分町は高度経済成長とともに急成長し、庶民的な歓楽街に変化していきました。
バブルの全盛期は3万人
昭和16年(1941年)に芭蕉の辻付近に日本銀行仙台支店が開業し、周辺は金融街・オフィス街としても発達しました。 現在の国分町の住居表示は、1970年の町名変更で1丁目~3丁目に分けられるようになりました。 バブルの全盛期には一晩に3万人を超える集客がありました。
また、仙台牛タン、炉端焼き、レゲエバンチなどは国分町発祥のものとして知られていて、 現在は一晩に1万人ほどの集客人口ですが東北地域では最大級の歓楽街であることには間違いありません。